モンゴルに行ってみませんか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シルクロード文化祭「煌」、「憧」11/19大阪、11/20京都!

 
2022年11/19(土) 大阪、11/20(日) 京都にて、シルクロード文化祭「煌」と「憧」が開催されます。
なお、チケット予約は不要ですので、直接会場にお越し下さい。
イベント詳細:
 
「煌」「憧」の二本をご覧になる方には特別通し券5000円を用意しています。会場でのお申し込み時にお申し出下さい。
この通し券は、19日、20日両日有効で、「煌」「憧」をそれぞれ一回ずつご入場頂けます。
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京都でクグルシンさんのコンサートを一緒にやりましょうか~ってことになって、高橋直己とはじめてあった。
人の良さそうな風体をした、言葉遣いが丁寧で、とても人当たり良い、折り目正しい、紳士だった。
が、いざドンブラを抱えて歌い始めた彼の声にはびっくりだった。張りのある声が、ドンブラの緩急に合わせて、ひびく、いや、とどろくと言った方がいいだろう。
クグルシンさんが弾く、比較的穏やかでゆったりとしたドンブラの音や落ち着いた声になれていた私には、高橋直己の声やドンブラはとても新鮮だった。
そして、楽曲の説明の…細かいこと、細かいこと…。正直いうと、まるでギリシャ神話を読んでいて、なじみのないカタカナが羅列する神様たちが出てきまくって、誰がなんだがよくわからない…というような迷宮に放り出された感があったが、彼の楽曲に対する深い愛情とリスペクトと、語らずにはいられない思いにはとても共感するモノがあった。あれも話したい、これも話したい、それも知って欲しいっていうことが沢山あるのだ、この人には…。そして、それらを話し、聴かせるだけの蓄積を持っているのだ。
私の勝手な思いだが、何を志すならば、それがなんであれ、金を生むとか生まないとか、名声を得るとか得ないとかそんなことは全部ぶっ飛ばして、その対象に夢中でなければ、本物にはなれないと思っている。おととい、きのうと詳解した福井則之、嵯峨治彦と、この高橋直己という男は同類だと思った…。
この男は、カザフ音楽狂いなのだと(もちろん、最上級の褒め言葉)。
ドンブラの演奏のみならず、コブズ(二弦の擦弦楽器)やサブズガ(管楽器)の演奏にも長けており、彼一人で十分以上にカザフ音楽を語り尽くせるのは間違いない。
コロナ禍で、オンライン番組をお願いしたときも、快く承諾頂き、収録に彼の地元を尋ねたのだが、放っておいたらずっと演奏をしていようかという気前の良さがとても心地よかった。
彼を語る時にはオクサマ、イナーラの存在を無視することは出来まい。カザフスタンの国家一級演奏者である彼女と、プロクラスが出場する歌謡コンテストで第一席を奪ったカザフの伝承歌謡を専門とする彼のコンビ…これ以上の組合せがあるだろうか?
今回のイベントでは大阪、京都のいずれかの会場にイナーラもやってくるらしい(未定)。
こんな二人の演奏と共に、色とりどりの民族衣装に包まれた人々が闊歩するシルクロードのオアシスにあるバザール(市場)を再現できたら…と、「カザフのドンブラと民族衣装ファッションショー」を企画した。
 
 
門司港に行った。古民家チャイハナ グリシェンカフェに入るなり…感じたこと…。
「やばいところに来てしまったのではないだろうか?」
「ここのオーナーはかなりやばい人に違いない…」
そして、オーナーのグリシェンこと中川裕美(以下グリ姐)氏のテンションに気圧されまくり、さらに一般には非公開という2Fを案内されたとき…私の予感は大いに外れたことを思い知らされた。
「やばいどころじゃない…」
ウイグルへの情熱の熱さは、トルファン(だったよな?)の火炎山はおろか、灼熱のタクラマカン沙漠をはるかに凌駕するモノだったのだ。
部屋一面に、服、服、服、服…福!
ウイグル、ウズベク(私はきちんと区別がついていないが…)の色とりどりの衣装が所狭しと折り重なり、まるで万華鏡の中に放り込まれたようなめまいを感じた。
気を取り直して1Fに降りると、壁にはなんとも言えない「良い絵」がかかっていた。(入ってすぐにグリ姐に圧倒されて周りが見えていなかったのだ)
不勉強で申し訳なかったのだが、グリ姐は甲斐大策氏にほれてほれてほれこんで、氏の作品たちをたくさん所蔵しているらしいが、この絵が実に素晴らしい。かの土地に住む人々がさりげなく、そのままに、生き生きと、妙にてらったふうもなく、ねらったわけでもなく、たんたんと描かれている。しかして、その絵からウイグルの人々の息づかい、祈り、願いまでもがささやかに伝わってくるかのようで、とても温かい。
グリ姐はというとウイグルのコトを語らせたなら、もう止まらない。姐さんは、「西村はよく話す」というが、私なんて姐さんの足元にも及ばない。
彼の地に通い続け、人々と関わり続けた姐さんの熱意にはただただ頭がさがるばかりだ。姐さんのフィールドワークは、その視点のセンスの良さが光りまくる。衣装のベーシックな情報はもちろんのこと、そのはやり廃り、でどころ、地域的な差異にはじまり、彼らの使う道具たちの地域差など、様々なモノを面白いとおもえるアンテナ感度の良さと、そ思ったものに片っ端から飛び込んでいく行動力には、ただただ驚嘆するばかりだった。
そう、対象へののめり込み方が半端でないのだ。
大好きだ…と思ってしまった。
グリシェンカフェでは、門司港名物と言われる焼きカレーとポロ(ウイグル料理:ピラフの大親分)のセットなど、こだわりのメニューがならぶが、私がよだれを垂らすのは、ウイグル茶だ。
数種類(いくつだったか忘れてしまった)の香辛料を姐さん自らが石臼で、夜な夜なゴリゴリひいてこだわり抜いてブレンドした薬膳茶…。絶品!仕事が終わって疲れ切っていようが、勢い余って酒飲んでベロベロになっていよいうが、夜中にゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ…やる姐さんは、恐ろしい、もとい、カッコイイ!
【ウイグル茶!大阪会場にて販売します!】
「門司港はね、文化の交差点なのよ。大陸文化が上陸し、日本文化が旅立っていった…。いろいろなモノや人が行き交う、そうシルクロードみたいなところなのよ」
この感覚にも、いたく感激した…ものだ。
シルクロードのオアシス都市に暮らすウイグル人と、姐さんは同じことをしようとしているのだ。
そんな姐さん所蔵の民族衣装たちが、昨日、段ボール箱4つに入って手元に届いた。魔法の玉手箱なのだろう、これは。
これがひろげられたとき、会場はシルクロードのオアシス都市となるのだ。
.......
来場いただいたみなさんには、これら衣装を着て、イベントに参加して頂きます!(無理にとはいいません。先着順です)そして、姐さんの求めに従って…あやつり人形…、いや、あやつられ人形となって…。
舞台と観客席の境目のないイベントとなることでしょう。
......
 
sho
 
京都在住の馬頭琴弾き福井則之…という人は、馬頭琴が好きで好きで好きで好きで好きでどうしようもなくて、どんな曲があるのか?どんな演奏をしてきたのか?どんな演奏者たちがいたんだろうか?どんな楽器の特徴があるのだろうか?なんてことを、朝から晩まで考えて続けているような変な男です。
でも、それゆえに、馬頭琴の魅力を語らせると、まぁ、でるわでるはの深い知識と広い見識…。そして、それらをすべて馬頭琴を弾いて証明してくれる…んです。放っておいたらなんぼでも弾いてくれる…そんな人なんです。弾くことが好きで好きでたまらないんですね。
馬頭琴は本来的にピンの楽器です。あの大草原のゲルの中で、ゲルのサイズの人々が楽しむために演奏されてきました。そこには人と楽器しかありません。ですから、歌い、弾く…それだけでいつまでも人々は楽しめたのです。そんな馬頭琴を彼は追い求め続けてきました。
だから…当然のこととして、馬頭琴一本(実際はいろんな種類の馬頭琴をつかいます。前身といわれるチョールとかも)で、始めて馬頭琴を聴くという人を前屈みにさせながら聞かせ続けられる実力を持つ…そんな演奏者なんです。
「福井則之の馬頭琴を聞いてくれなんて、とんでもない…。僕は馬頭琴を聴いて欲しいんです。この馬頭琴の素晴らしさを引き出し切れていませんから。まだまだですよ」
なんて、まぁ、謙虚すぎるほどに謙虚な彼は、ソロコンサートをやらないんです…。「まだまだ」なんだそうです。
ここまでくると、おいおい、だんだん憎らしくなってきたぞっておもっちゃったり~。
なので、なんだかんだと引っ張り出して「ねぇー、演奏して~」ってお願いするようになっています。「モンゴルの馬頭琴と噺」ライブもその一環だったりします。
さて、そんな彼が馬頭琴を学び始めて、憧れた存在が…
嵯峨治彦です。
 
 
壁紙に小さな文字で、「うぃ~、うぃ~」と書かれたwebサイト…それが「のど歌の会」のオフィシャルサイトだった。
まだインターネットが世に出てきばかりの頃、まだまだモンゴル関連のwebサイトが少ない時代に、このwebサイトは尖っていたと思う。
変な人がいるもんだ…というのが第一印象だったが、その後、新宿で、この嵯峨治彦なる人物の馬頭琴演奏を聴いたときに、ぶったまげた。当時、まだまだ馬頭琴奏者はほとんどいない(いなかったわけではない)中、ここまで独学で弾くに至っている人物を観たことがなかった。
かつての遊牧世界では、あちこちのゲルに手製の馬頭琴があって、そこの子どもたちが、親父さんなり、爺さんなり、おっさんなりの演奏を聴きながら育ち、見よう見まねで好き勝手に弾くようになっていったというが、まさにそんな風に馬頭琴を習得したのが嵯峨治彦であった。
演奏者が近くにやってきたら押しかけて教えを請い、路上で流しの演奏活動をしながら、「どうやってあの音を出すのだ?」「指はどんな風に動かせばいいのだ?」などなど、一つ一つを、徒手空拳、必死の試行錯誤の末に見つけ出しながら、腕を磨き上げていった在野の貴種(奇種?鬼手?)なのだ。
そんな彼は、これまた、まるで遊牧世界の住人たちが周辺異文化・異民族と接触しながら自らの文化を発展させていったように、様々なジャンルの音楽と異種格闘技戦を繰り返しながら、いわゆる「伝統」という権威の枠にはめられることなく自由に馬頭琴を扱うようになった、極めて特異な、いや、むしろ、本来の遊牧世界の馬頭琴のあり方を、日本で体現したかのような存在となっていった。
そして、ネルグイという、これまた、モンゴルの馬頭琴界の異端児、はぐれもの、はずれもの…そうでありながら、やはり、真の馬頭琴のあるべき姿、あった姿を体現したかのような存在と出会ったときに、完璧なるお墨付きをもらったかのように、そう、水を得た魚のように、見事な親和性を持って遊牧世界の馬頭琴の伝承者となったのだと私は思う。
彼の演奏は、「自由」という言葉に集約されるだろう。そして、なにより、演奏している彼はとても楽しそうだ。みている方も楽しくなる。何かやってくれるに違いないという期待に必ず応えてくれる…そんな演奏を披露してくれる。
彼の馬頭琴演奏は、馬頭琴という楽器自体が内包する可能性を解放するかのような躍動感があり、草原を自由に走り回るウマたちをみるかのようだ。
札幌で開催された「憧」で、嵯峨治彦は、もしかすると、演奏技術という点で、福井則之に後れを取ったのかもしれない。会場では、「嵯峨さん、押されてるね」なんて声が聞こえたのも事実だ。しかし、嵯峨治彦は走り回ってきた世界の広さで、福井則之を凌駕した…。突然の飛び道具(雪かき…の歌…)に、福井則之は膝を折ったのだ。
11/19は大阪で、11/20は京都で、ふたたび、嵯峨治彦、福井則之は相まみえることとなる。お互いがそれぞれのウマを自慢し合うかのような演奏は、きっと馬頭琴の歴史に残るものとなることだろう…。
我々はそんな歴史の証人となるのだ…。